須賀神社 (通称 ごりょうさん)

熊野御幸の節は沿道にある。この王子社の数は実際は、九十四社であるが、世に之を九十九王子と申されており、当神社の飛地境内社、千里王子神社もその一つであり、県文化財指定を受けている。

須賀神社

御祭神
第一殿  素盞鳴尊 [ すさのおのみこと ]
第二殿  櫛稲田姫命 [ くしなだひめのみこと ]
第三殿  八柱御子神(五男三女神) [ やはしらのみこがみ ]
八島篠見神 [ やしまじぬみ ] 五十猛神 [ いたける ] 大屋比売神 [ おおやつひめ ] 爪津比売神 [ つまつひめ ] 大年神 [ おおとし ] 宇迦之御魂神 [ うかのみたま ] 大屋毘古神 [ おおやつひこ ] 須勢理毘売命 [ すせりひめ ]
配祀 二十五社の神
御由緒
本社は一条天皇の御宇神祗大副吉田兼延の三男(従五位下)。吉田宗沢延春、山城国祇園神社より、吉田氏の祖郷たる産土神を此の地に勧請し、祇園御霊宮と称し、南部荘の総鎮守として斎き祀り、古へは、山内、気佐藤、北道、南道、埴田、堺、芝、吉田、徳蔵、筋、谷口、東西本庄、熊岡、山田の十五ケ村及び高城、清川の十三ケ村の氏神なり。
御鎮座の砌、勅使下向ありたる由、其の時の御屋形跡と云ひ、古き柱礎が現存す。今に其の屋形跡の御前にて祭礼の儀式を行い勅使の遺風伝われり。
歴代領主藩主の御崇敬
当社勧請に当っては勅使派遣されたとも云い伝えられ、棟札古文書等には、明徳年間(1403)に領主愛洲氏社殿造営し、永正年間(1514)には、地頭小野氏の崇敬また厚く社殿再興し神戸神馬を献じ、慶長年間(1616)浅野氏、田辺城主たるや親しく社参の儀あり、木造黒馬を献じ、以後例祭には田辺藩主の代参ありたりと云う。
江戸時代、寛文年間(1671)には国主徳川頼宣公の崇敬甚だ厚く、熊野巡視の機ある毎に社参せられ、御幕獅子一対、三ツ具足、葵の彫物、高張提灯、鰐口、絵馬等の寄進あり、以後、元禄、享保、安永、寛政の世に至る迄、累代国主の金品の寄進尠からずとという。第二鳥居前には田辺講中よりの石燈籠の寄進もあり、近在、近郷に至る迄、崇敬者の厚かりし名社たり。
御神徳
須賀神社は一般に「御霊さん」と呼ばれている。
主祭神は素盞鳴尊さまで国土の神、穀物の神等の親神である。天上に於ける最高の女神、天照大神の御弟神であり、凶暴な神に虐げられる農家の少女を救った話もあって農業を守る神として農民に崇められ、又、日本の詩歌を初めて作った神でもあり、文芸の祖神としても崇められている。殊に疫病消除の神としての信仰が深く、有名な伝説も伴っている。昔、この神様が、南海に旅行し、一夜の宿を求められた時、慾の深い富んだ兄は断ったが、心の清く貧しい弟は粗末ながら粟飯を炊いて歓待したので、その子孫は長く守護を受けることになり、後に疫病流行の際、兄の一族は皆死んだが、弟の一統は恙なきを得たということである。又、この神様は、もと乱暴な我侭な人間性の弱点をそのままもっていたのであるが、罪穢を消める賭罪の道を開き神格に達するを得たので、後世に修養更正の教訓を残し、日本道徳の祖神ともせられている。斯く非常に古い時代から数限りもない多くの神話を伴っているので一々説きつきすことは出来ぬ。
我が郷土民の生活業務は古き時代から、この神の加護によって安全を保証せられ、郷士の文化はこの神社と共に発達し又、残されている。
毎年10月9日の秋祭に行われる神輿渡御は最も賑かな祭で、当日の神事は往古の勅使下向の形を取りて行われ、近在、近郷の類なき祭例である。この平和郷の現代人の生活も、この神社を中心として色々の古い慣例を持っている。例えば正月元旦に行う火占神事によりて、その年の五穀の豊嬢を占い、又除夜祭には神社の聖火を戴きて、その火により御燈明をともし又、新年の食物を煮炊きする火継神事等がある。生活の幸福と和楽とを、この神社に求めて居り、此の地に住む人は悉くこの神によって守護されている。
御社殿
当社は遠き昔から、御由緒深い須賀の森山腹に鎮座ましましたと伝えられているが、何時の世の頃よりか現地の山に移祀されたものと思われる。現地のお山は一夜にして出来たので、夜の山とも云い伝えられている。又、旧社地跡と思われる地域には平坦な馬場跡もあり、旧祭器具類と思われる弥生式土器の破へんも数々発掘された。
社殿は第一、第二、第三、本殿ありて共に一間社隅木入春日造、丹塗極彩色をほどこし御屋根は、桧皮葺にして古い形式を今日に伝えている。
社殿は、天正の兵災にあって焼失したが、明徳年間、永正年間等に領主、地頭の手によって再興再建され、以後幾度の御屋根替等も行われているが、その棟札も30数枚の多きに上り、現在の建物は江戸中期以後の建立になるものであり、三殿ともよく整った形態を備え、豊富な彫刻を飾っている。古建造物の遺存するものの少ない紀南地方においては、貴重な存在であるので、昭和43年6月には、県文化財に指定されている。
御社号と社格
明治維新前、神仏習合時代には御霊さんと呼ばれ、特に京都祇園八坂神社よりの勧請社たりし故、祇園御霊宮と称されていたが、明治元年の太政官達により同年3月28日祇園御霊宮を須賀神社と改称せられたのである。千年の久しい間、歴史上由緒深い社号であるので、未だに一般に奥の御霊さんの通称がある。明治6年4月に村社に列し、更に明治15年1月に郷社に昇格す。
昭和の初期には県社昇格運動もおこしたが、終戦と共に、神道指令により宗教法人となり、社格制度が廃止され現在に至る。
熊野御幸
中世熊野信仰の興隆に伴い、上は皇室を始め奉り、公郷、武士、庶民に至るまで熊野詣が流行し、恰も蟻の行列の如く熊野街道は往来の人々で賑ったのである。世に之を「熊野詣」と云う。
熊野御幸の節は沿道にある。この王子社の数は実際は、94社であるが、世に之を九十九王子と申されており、当神社の飛地境内社、千里王子神社もその一つであり、県文化財指定を受けている。近郊に、切目王子、切目中山王子、岩代王子、三鍋王子、芳養王子等がある。
摂末社
●境内神社
戎神社(蛭子命)    大国神社(大国主命)
事代神社(事代主命)  櫛八玉神社(櫛八玉神)
大歳神社(大歳神)   御年神社(御年神)
若年神社(若年神)   祓戸四柱神
摂末社
●境外末社
現に飛地境内神社として各字に鎮座せる、元無格社にして、明治40年須賀神社に合祀せし小祀を、更に昭和19年御分霊して境外末社として祀りたるものにして、合わせて25社の神社がある。
境内地史蹟
須賀橋を渡り、川沿いをいけば森蔭に千古の昔より水枯れのしない渕がある。名づけて、精進渕と称され、古へは宮詣りには必らずこの渕にて潔斎されお詣りしたものという。
●精進渕
今も夏越の祓、師走の大祓にはこの渕にて河原神事を行っており、秋の例祭の渡行の御進発も、ここにて一の礼の儀式が始まり、第一鳥居に入ることになっている。
●御屋形跡
古京師御霊宮勧請の砌、勅使御休息の後、遷座の儀を執り行った所と申され、例祭の渡行巡幸の際には、この二の鳥居前の御屋形跡を廻り、二の儀式を執り行い本殿前に参入し、第三の礼の儀式を行い、巡幸祭の終了をつげることになっている。
●起請塚
古へ城主野辺弾正の悪政を戒しめんがため、志場若太夫なる者が百姓連判の起請文を奏し、神前に誓い、起請文を壺に入れ埋めおき志場氏一人登城して野辺氏に会見し、時の城主の政治を改革さしたという。その時の起請文を埋めおきし場所を今に起請塚と称されている。

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